環境問題を考える会
                             

小金井空襲慰霊祭に参加(環境問題を考える会)

 下野市が非核平和宣言都市であることはご承知の通りです。戦争こそは最大の環境破壊であり、それ故に環境問題としても再び戦争を起こさないための取り組みが必要です。そのためには、先の戦争における地域の悲惨な戦災体験を語り継いで行くことが必要不可欠です。
 太平洋戦争末期、小金井駅周辺が米軍機の機銃掃射を受け、多くの死傷者を出す惨禍があったことをご存じでしょうか(詳細は下記末尾を参照下さい)。この悲惨な戦災を語り継ぐため、毎年市民ボランティアによって慰霊祭が行われており、今年も7/28(日)に小金井空襲慰霊祭が開催されました。当会からも有志が参加したので、以下に概要を紹介します。

日時 7月28日(日) 10時〜
場所 JR小金井駅西口 平和の礎前(添付写真参照)
主催 慰霊祭実行委員会(会長:星野平吉氏)
備考 
慰霊祭後の交流会について、今回は慰霊祭に尽力された故若林英二氏らを偲ぶ会とする。なお慰霊祭・交流会とも市民の参加は自由。(ただし、この慰霊祭の開催は一般市民には広報されてないとのことです。)

慰霊祭を行うJR小金井駅西口に集まった市民の皆さん。
下野市民だけでなく、小山市や栃木市からの参加者も多い。
小金井空襲の慰霊碑「平和の礎」の前で読経を行う横井住職(筑西市・妙西寺)
先代の住職は米軍機の銃撃を受けた列車の乗客だった体験者ですが、惜しくも亡くなられました。
任意順で焼香を行う参加者の皆さん。
慰霊祭終了後、駅前の観光案内所「オアシスポッポ館」で交流会が行われました。
会場に集まった参加者の皆さん。
交流会の司会をする実行委員会の田之島さん。
開会の挨拶をする実行委員会会長の星野平吉さん。
来賓の挨拶をする下野市の山中福市長。
小金井慰霊祭に対する下野市としての取り組みについては話がありませんでした。
プロジェクターにより貴重な映像を上映。
慰霊祭に尽力された故若林英二氏、故若林和雄氏、故横井千春氏
の在りし日の映像および米軍機のガンカメラによる銃撃の動画が上映されました。
故若林英二氏の思い出を語る実行委員会顧問の諏訪さん。
(元国分寺町の職員で、現はくつる会理事長)
故横井千春氏(妙西寺先代住職)の思い出と本人から聞かされた小金井銃撃体験談を語る横井高明現住職。
横井千春氏は米軍機の銃撃を受けた列車に乗っていた体験者で、慰霊祭にも尽力されました。
小金井銃撃の貴重な体験者として生々しい体験を語る簗昌子さん。
当時小学生だった簗さんは宇都宮空襲を受け、家族と共に新潟へ疎開する際に列車の中で米軍機の銃撃を受けました。その列車の中は正に地獄だったとのこと。
故若林英二氏の思い出を語る下野市九条の会代表の曽根さん。
故若林英二氏は反戦平和運動にも尽力され、下野市九条の会の代表や顧問もされていました。
小金井駅西口に立つ「平和の礎」
小金井空襲の犠牲者を慰霊するため旧国分寺町が設置したもの。
同左、裏面の碑文。
小金井空襲の戦災を記したもので、碑文は故若林英二氏(旧国分寺町長)による。
機銃掃射を行った米軍のP51戦闘機のガンカメラに記録された映像の一場面。
小金井駅のホームで銃撃を受ける機関車と立ち上る煙が見える。
(小金井空襲について)
1945年(昭和20年)7月28日、既に米軍に占領されていた硫黄島の陸上基地から米軍のP51戦闘機が栃木県内に来襲、うち3機が東北線上り旅客列車を追尾し、小金井駅周辺で機銃掃射を行った。その結果、戦没者の慰霊を迎えるため駅前に集まっていた群集と列車の乗客が犠牲になり、31名が死亡、約80名が負傷した。しかし当時この事実は日本軍部の指示により終戦まで隠蔽された。なお、この銃撃の全貌は米軍機に装着されたガンカメラで撮影され、その録画も保存されている。(前の画像はその1場面)

(補足)
死傷者の規模からして、小金井空襲は栃木県内でも宇都宮空襲に次ぐ戦災と言われていますが、下野市民の多くは小金井空襲のことも、慰霊祭のことも知らないのが実情であり、広く一般市民への広報が必要と思われます。
この慰霊祭は旧国分寺町長の故若林英二氏らが中心になって2004年から行われ、現在も実行委員会の星野会長によって引き継がれていますが、貴重な戦災体験者も慰霊祭の関係者も次々と亡くなり、毎年の限られた参加者も高齢化しています。このままでは、当地区の重要な戦災体験が風化しかねない状況にあり、下野市には行政として主体的にこの慰霊祭に関与することが望まれます。

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