旧石橋町“馬市物語”
公開日:2021年12月08日 最終更新日:2022年04月19日
タイトル | 「馬市物語」 |
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詳細
下野市石橋旭町故海老原輝氏が昭和63年【石橋コミュニティだより】の寄稿文を紹介いたします。 |
石橋に泊り次は利根川を船で渡り、幸手で宿泊り、そして東京に出る。かつての農家では馬は活農具として百姓仕事にはかかせないもので一つ棟の中で飼い、家族同様大切にした。大正二年東北線の開通は、石橋宿を馬市場として発展させる基となった。東京の商売上手な博労は汽車でやってきて、目ぼしい馬を先に買い占めた。自分は先に汽車で帰り馬曳きに頼んだ。石橋まで行けば馬が売れる、石橋まで行けば馬が買える。自然に取引の場所となった。決まった市はなく、各馬宿で勝手に売買が行われた。大正十年の頃から年四回日を決めて開くようになった。春は二月と四月、秋は十月と十一月、各々一週間であった。馬市に集ってきたのは博労ばかりでは無く道端には、馬具や、臨時の飲食店、夜は芸人が幾組も集まり店先で酒飲みお客が芸をやらせ、これを見物する人達が隣村からも集まり道路が一ぱいになった。ばくち打ちの親分も出張してきた。 |
馬喰同志のけんかもあった。「お前の売った農家は俺の縄張りだ」おれの畑をとった。、と争った。その都度仲直りで酒とまんじゅうが売れた。取引方法は袖の下で売り手をの間に仲買人が手を袖の下に入れ、指一本にぎれば一円、二本にぎれば二円、売手と買手に差額の生じた時は買介者のもうけになる。一頭取引される毎に酒かまんじゅう買うのは常識になった。旅人宿に長泊りして売買したので一週間は賑った。たばこ屋、乾物屋、魚屋、衣料屋、お菓子屋、酒屋、すべての町商人が喜んだ馬市であった。昭和十二年戦争突入となった。石橋馬市を利用したのは軍馬の微発の(買上)が行われ、合格すると |
戦後の家畜市場 |