旧石橋町“馬市物語”
詳細
下野市石橋旭町故海老原輝氏が昭和63年【石橋コミュニティだより】の寄稿文を紹介いたします。
「戦前の家畜取引」
馬市が開かれた歴史をあきらかには知らないが伝いえ聞くに、馬産地(南部岩手県)より奥州街道を通り東京に上がった。七頭が一組で先頭の尾と二番目の馬の口輪をつなぎ、順に七頭を一綱と言った、博労(ばくろう)がこれを曳いた。当時石橋には十三軒の馬宿があった。
当時の馬市風景
石橋に泊り次は利根川を船で渡り、幸手で宿泊り、そして東京に出る。かつての農家では馬は活農具として百姓仕事にはかかせないもので一つ棟の中で飼い、家族同様大切にした。大正二年東北線の開通は、石橋宿を馬市場として発展させる基となった。東京の商売上手な博労は汽車でやってきて、目ぼしい馬を先に買い占めた。自分は先に汽車で帰り馬曳きに頼んだ。石橋まで行けば馬が売れる、石橋まで行けば馬が買える。自然に取引の場所となった。決まった市はなく、各馬宿で勝手に売買が行われた。大正十年の頃から年四回日を決めて開くようになった。春は二月と四月、秋は十月と十一月、各々一週間であった。馬市に集ってきたのは博労ばかりでは無く道端には、馬具や、臨時の飲食店、夜は芸人が幾組も集まり店先で酒飲みお客が芸をやらせ、これを見物する人達が隣村からも集まり道路が一ぱいになった。ばくち打ちの親分も出張してきた。
馬喰同志のけんかもあった。「お前の売った農家は俺の縄張りだ」おれの畑をとった。、と争った。その都度仲直りで酒とまんじゅうが売れた。取引方法は袖の下で売り手をの間に仲買人が手を袖の下に入れ、指一本にぎれば一円、二本にぎれば二円、売手と買手に差額の生じた時は買介者のもうけになる。一頭取引される毎に酒かまんじゅう買うのは常識になった。旅人宿に長泊りして売買したので一週間は賑った。たばこ屋、乾物屋、魚屋、衣料屋、お菓子屋、酒屋、すべての町商人が喜んだ馬市であった。昭和十二年戦争突入となった。石橋馬市を利用したのは軍馬の微発の(買上)が行われ、合格すると
五拾円の馬が二百円になった。合格は名誉であり多額の金が入手できた。時には一千頭も他県からも集まり繋留所に困った。そのうち戦況も厳しくなり空襲下に馬など曳き歩くこともできなくなり、北海道からの貨車も軍用以外は許可にならず、昭和十八年市場は閉じられた。
戦後の家畜市場
昭和二十五年、戦後の落着を取り戻した頃、市場再開を、町議会に要請した。福島の白河市で市営の開催している。石橋町でも町営開設して頂きたいと、しかし町営は、むずかしと意見は取り上げられなかった。私は意見を具見した責任上市場を再開するはめとなってしまった。
昭和二十八年石橋市場再開祝賀会を、小平知事を迎えて盛大に行った。当時の花火大会は珍らしかった。三万人の人々が集まった。業者の寄付と町からの負担金五万円合計五十万円の経費が当ててられた。残金は青年団に協力金として寄金した。時は流れ馬市の名称は、家畜市場となった。馬は牛に移り、農耕や車を引いてた馬は専ら食べる為に飼育さた。牛馬畑化は畜産農家をして招来を見極め得ないまま推移している現状である。
石橋には、まんじゅう屋多かったな?
「昭和63年9月20日発行 石橋コミュニティだより、より」
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